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--富多屋の歴史--

みちのく街道分岐点
江戸時代末期(嘉永20年頃)、弊社初代店主の義三郎が、宿場町であった郡山の奥州街道沿いに『富多屋』という名前のそば屋を開きました。その後明治になって店舗の場所が会津街道との分岐点になり、その三角点であった事とそばの量が山盛りであった事から「さんかく蕎麦屋」と呼ばれ、街道往来の人々に親しんでいただいておりました。

 
江戸時代に整備された松前道(奥州街道)と会津地方に抜ける会津街道の分岐点にある道標。    

 

発想力の二代目
二代目店主の音吉は、稀代のアイディアマンでした。屋台蕎麦用の屋台と道具一式を貸出し、店主が作ったそばを卸売りする商売を始めました。夜になるとこのシステムを利用した夜鳴き蕎麦の屋台が沢山街中に出没したそうです。今のフランチャイズ・システムのようなアイディアでした。

 

チャレンジ好きの三代目
三代目店主の正(改名し音吉)は、明治時代から大正時代の初めにかけて、横浜の方で話題となっていた中華そば(当時は支那そば)の研究をはじめました。試行錯誤の末に完成させた中華そばを店のお客様に食べていただいたところ、大変美味しいと評判になりました。そこで仲間のそば屋さんたちが、自分の店にも分けて欲しいという事になり、本格的に中華麺を造りはじめ、改良に改良を重ねて三代目音吉流の中華麺が完成しました。ところが評判があまりに良かった為に、造るのが間に合わず、自分の店『富多屋』で売る麺が無くなり幻の中華そばと云われたこともあったそうです。
しかし、昭和に入り第二次世界大戦が終わると食糧不足で、麺の材料の調達が思うようにいかず、商売を家具店に替える決断をしました。

 

新たなる創業
四代目の明は、叔父である三代目音吉の経営していた『富多屋』の麺作りの仕事に魅力を感じ、独学で農家である本宮町の実家で麺を造り、郡山まで自転車で売り歩く仕事をはじめました。すぐに叔父の目にとまり、郡山で富多屋の暖簾を引き継ぐことが決まりました。
昭和24年に富多屋生麺店として『富多屋』は新たな創業をしました。昭和の激動の中で常に先を見て行動したバイタリティ溢れる人物でした。
昭和40年に県内初となる大町共同ビルを建て事務所兼工場を入居させました。昭和44年に株式会社に法人化し、昭和48年には県内初の郡山食品工業団地協同組合を設立しました。昭和51年に社名を(株)富多屋生麺に変更し完成取得した食品工業団地の敷地内に、本社及び工場を移転させました。

 

日々創業
五代目の一明は、入社時に5種類しか無かった中華麺を(取引先のお店の個性を出すお手伝いをする為に) 約230種類(現在)に増やしました。その為に入社当時の効率の良い生産をして価格競争をする世の中の流れから逆行しつつ、少量多品種連続生産の技術開発に取り組みました。
平成8年に社長に就任し、それまで独自に研究していた「美味しい定義」やラーメンに関する様々なノウハウを基に、ラーメンの味作りやラーメン店舗作り等のアドバイスをして、繁盛店を創るお手伝いをしています。さらに、ラーメン店の開業支援・リニューアル支援の為のテストキッチンを工場内に完成させ、支援体制を強化しました。このテストキッチンから沢山の繁盛店が生まれました。
ラーメン業界は、流行の期間も短く、いつも大きく変動しています。そんな中、変えてはいけない地に足が付いた商売の部分と、常に変革していく部分を考えながら「日々創業の精神」で社業に取り組んでおります。

 

こぼれ話
明治時代には、「富多屋」の前の街道を、材木を運ぶ荷馬車が行き来していました。二代目の音吉は、この馬のためにと、麺を茹でたお湯を捨てずに大きな酒だるに溜めておき、店の前で馬に飲ませてやっていました。普通の水と違い、味があり美味しいので、荷馬車が通りかかると、馬がそれを飲まないと動かなくなる程でした。飲み終えた馬はまた元気に荷車を引いて行ったと云うことです。
もちろん、馬が飲むのに合わせて、そばを食べる方が多くなり売上も良くなったそうです。
今でいうエコをビジネスにつなげた微笑ましいエピソードが残っていました。